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あまり聞かない「ことわざ」集

 朝日新聞出版の「日本語きほん帳」という本から、普段、あまり聞かない「ことわざ」をいくつか集めて紹介しましょう。まず「田舎の学問より京の昼寝」田舎で一人で学ぶより都会に出た方が人は鍛えられるという意味。次は「上戸は毒を知らず下戸は薬を知らず」酒は過ぎると身体に悪いが、百薬の長といつても飲めない人もいるのです。

 また「聖徳は愚なる如し」品性崇高な人物は目立たたないで逆に愚かに見えるものだという意味。次は「千里の馬はた有れども伯楽は常には有らず」日に千里を走る名馬はよく居るけれどそれを見つけて育てる伯楽はめったに居ないのです。「悲しき時は身一つ」逆境にある時に頼れるのは自分だけということ。

 「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」朝、人として大切なことを聞いたら夕方死んでもいいというのです。「仇(あだ)も情けも我が身より出る」相手が自分を嫌ってると思うのはすべて自分の相手に対する気持が反映してる意味。「一物有れば一累を添う」何か一つ物があればそれに関わる煩わしいことが必ずついてくるのです。

 「起きて半畳寝て一畳」起きて読書に使う畳は半畳あればよいが寝る時にはどうしても一畳使うということ。「学問に王道なし」学問には安易な方法は無く誰でもやらなければならないことをしなければならないのです。「相惚れ自惚れ片惚れ岡惚れ」誰かを好きになるのはそれぞれかってで様々であるという意味。つまり「たで食う虫も好き好き」なのです。以上珍しい「ことわざ」を披露しました。何かに役に立てば幸甚です。

藤原定家と百人一首の豆知識

 寒い季節は、どちらも池袋西武デパート地下にある「とらや」の羊羹や「小倉山荘」のお煎餅を熱いお茶で頂くのが最高だと思っています。今日は百人一首がお好きな方に会社名が何と「㈱小倉山荘」というお煎餅屋さんと、百人一首の豆知識を合わせて紹介しましょう。このお煎餅屋の目玉商品の名前は「をぐら山春秋」。

 小さなお煎餅が八枚、薄いビニールのお皿に入れてあって、お皿に一枚一枚「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」などと印刷してあり、お煎餅と百人一首が同時に楽しめる仕組みです。そして、もう一つ、一枚だけザラメ煎餅が入っていて全体の味を引き立てています。ところで、百人一首を語るには、1221年に起きた「承久の乱」まで遡らなければなりません。

 当時、鎌倉幕府の執権だった北条義時に対し後鳥羽天皇が兵を挙げて戦い(承久の乱)、敗れて島流しにされるのです。後鳥羽天皇は和歌の達人で、和歌が好きな藤原定家と親交がありました。ともかく、和歌を教えたのは後鳥羽天皇で百人一首は後鳥羽天皇の鎮魂のために作ったという研究者がいるくらいです。

 定家は99番に後鳥羽天皇の「人もをし 人も恨めし あち”きなく 世を思ふゆえに もの思ふ身は」、そして最期の100番に息子の順徳天皇の「百敷や 古き軒端のしのぶにも なほあまりある 昔なりけり」を入れ、藤原定家自身は97番に「こぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」を入れました。多分、「こぬ人は」後鳥羽天皇です。本当に小倉百人一首大好きですべて紹介しましょう。

歴史学者の悦は古文書の発見

 歴史学者磯田道史著「日本史の内幕」(中央公論新社)の中に、徳川家康が1572年に武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いの真相という一文があるので紹介しましょう。何しろ家康はうまく浜松城に逃げ込み、負けはしたものの命は落とさなずに生き延びたのです。もし、この時、家康が命を落としていたら日本の歴史は大きく変わっていたはずです。

   通説では、この戦いの武田信玄軍は二万人~三万人、徳川家康軍は八千人と言われていて、徳川軍には織田信長の援軍が三千人いたそうですが、人数では最初から家康軍には勝ちみが無かったようです。しかし、歴史学者の磯田氏は、この人数が記録された古文書を沢山読んでいて、どうやら、文書による違いがあるようです。

   中には、家康は劣勢を覚悟の上で出陣したとされているようですが、実際は無謀ではなく、織田信長の援軍は三千人どころではなかったと書いた古文書もあり、磯田氏は情報は権力の都合で操作されるので、後日の情報公開とセットにして判断しないと検証は不可能と書いています。

   それにしても、磯田氏は「四戦紀聞」「改正三河後風土記」「甲陽軍鑑」「三河物語」「前橋酒井家旧蔵聞書」などの古文書をいっぱい読んでいて、どこかで人数の違う本を見つけて「おやおやこんなに違うことを書いてる」と仰天するのも歴史学者の醍醐味かも知れません。でも、本のお金もいっぱい掛かる仕事のような気がします。

天才の判断ミス「最後の晩餐」

  「あなたの知らない世界遺産のミステリー」(河出書房新社)という本から世界遺産の「最期の晩餐」について書きます。レオナルド・ダ・ヴィンチといえば、誰でも真っ先に思い浮かべるのは「モナリザ」でしょう、しかし、もう一点、「モナリザ」と並んで有名な「最期の晩餐」を忘れてはいけません。

   この絵は イタリアのミラノにある「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院」の食堂に描かれた壁画で、ダ・ヴィンチが1495年から制作に取りかかり、1498年に完成しています。ところが、ダ・ヴィンチは、普通、壁画を描く時に使うフレスコ技法を使用しない致命的なミスを犯してしまったのです。

  そのため、劣化が激しく、すでに生存中からその劣化が始まっているのにダ・ヴィンチのコメントは一つも残っていません。きっと口にするのさえ恥ずかしかったのでしょう。ともかく天才が比類ない傑作を描こうと用いた手法が裏目に出て、絵の寿命を早めることになってしまったのです。天才でもこういうことがあるのを知りびっくりしました。

 それにしてもこの絵を朽ち果てさせてはならないと1970年代末に大規模な修復作業が行われ、最新の科学技術を駆使して、カビを取り除くなど必死の努力を続けた結果、1999年5月にダ・ヴィンチのオリジナルの姿に戻したそうです。では「最期の晩餐」をじっくりご覧になって下さい。ちなみにキリストの処刑前夜を描いた画家はダ・ヴィンチ以外にもかなり沢山いるようです。

 

ああ映画「バグダッド・カフェ」

 相当な映画好きで、古今東西、恐らく数百本の映画を観てるであろう私が「これぞ映画好き必見」と思った一本の西ドイツ映画を紹介しましょう。2021年9月現在「映画大辞典」に193人の投稿があり、そのうち7点~10点の方が127人(約66%)もいる映画で、その題名は「バグダッド・カフェ」、1987年制作の映画です。

 この映画を評価するには10点を付けてるひとりの人のコメントをそのまま書くのが適切かも知れません。《イケメンも美女もいない。派手な演出があるわけでもなし、とくにこれといって物語に起伏があるわけでもない。なのに良い映画だと思いました。雰囲気?不思議な映画です。うまく言葉で説明できない。荒んだ心が洗われる。つまらない人にはとことんつまらない映画でしょう》。それでいて、音楽がいつまでも耳に残り見終わった後の余韻が中々消えないのです。まさにこんな映画観たことない。

 それに、この映画には、悪役びったりのハリウッドの俳優がひとり出演しています。その俳優の名前はジャック・バランス、映画「シェーン」のラストで、アラン・ラッドと拳銃の撃ち合いをして、やられるガンマンです。映画が始まって直ぐにこの俳優に気がついた方はかなりの映画好きに間違い無し。この映画の監督パーシー・アドロンがあえて出演を頼んだとしか思えません。役はこの店に居候の三文画家です。

    映画はDVDを観て頂くとして、コーヒーカップ片手にうすら笑いのジャック・バランスの映像を紹介したくなりました。このデブのおばさん主演の不思議な映画(0点と10点が混在)「バグダッド・カフェ」是非、ご覧になって下さい。ところでこの監督、何と2010年にマーラーの伝記「君に捧げるアダージョ」(音楽映画ですよ)という映画を作っています。いやはやこのDVD、マーラーのファンとしては銀座の「山野楽器」か「ヤマハ」で探さなくっちゃ。それにしても画家がデブのおばさんに結婚を申し込み彼女はブレンダ(次第に仲よくなった女店主)に相談すると言って映画は終ります。この監督きっととても優しい方だと思いました。何だかほのぼのとするいい映画です。

「起承転結」を論じる岩波新書

 「広辞苑」で名をあげた岩波書店に「四字熟語ひとくち話」というタイトルの新書があり、私の愛読書の一冊と言っていいでしょう。私が15年前の2006年にブログを始めるに際しそのタイトルを「ドアのない談話室」に決めて、以来、これを変えることなくずっと続けているのは、恐らくかなり気に入ったに違いありません。

 そして、毎日、文章を書くには、全体の長さに基準を設けないと困るのではないかと思い、最初は無我夢中でうまい方法を考える余裕などあるはずがなく、「適当に始めて適当に終わらす」しかなかったのです。やがて「起承転結」を思いつき、全体を四ブロックに分けるのが最善に気がついたのです。

 ところで、この「起承転結」はこの新書の2番目にあり、書き出しは《大坂本町糸屋の娘、姉は十六妹は十四、諸国大名弓矢で殺し、糸屋の娘は目で殺す。この俗謡風の文句、「大坂本町」が「京都三条」であったり、「糸屋」が「紅屋」であったりすして、細かな語句の異同は限りなくあるから、それはさておいてほしいとか》。

 第一、この文句の作者、頼山陽は諸伝まちまちで、まあ、それだけよく知られよく伝えられてきたということ。ともかく「起承転結」の例として、実にうまくできています。漢詩の絶句は四行の句から成り、その四句が起・承・転・結の構成をとっているのです。まず発端、それを受けた展開、まったく別の話題に転じたかと思うと、最期はうまくまとまりが付く。頼山陽はその説明に、冒頭の俗謡を示したというのです。なるほど、味わうほどに、下手な漢詩なんぞよりずっと面白いと。文句は調子がよいに限ります。

 

読む価値ある「裏ネタ日本史」

   あと三ヶ月ほどで赤穂浪士「四十七士」が吉良邸に討ち入りした12月14日がやってきます。後に「忠臣蔵」として歌舞伎や多くの映画、小説、テレビドラマとして取り扱われてる実話です。命を投げ打って忠義の精神を実践した「四十七士」は日本人のメンタリティと抜群の相性でこよなく愛され続けています。

   ともかく、主君の恨みを晴らした後、その責任を取って全員切腹したはずの47人の中にたった1人だけ41年間生き続け、何も語らないまま83歳でその一生を閉じた武士がいるという話が「裏ネタ日本史」(宝島社)に書いてあります。この本にその氏名まで明確にあり、その男、寺坂吉右衛門がどうして切腹を免れたかの幾つかの説が書いてあるので紹介しましょう。

   まず、何人かの仲間の話によると、寺坂は12月14日まで吉良邸には来なかったというのです。つまり、討ち入りには参加してなくて討ち入りは46人で行われたというのです。また寺坂は討ち入りには加わったけれど、泉岳寺には向かわずに途中でいなくなった説があります。

 そして、もう一説は寺坂は浅野内匠頭の臣下ではないので切腹するのは気の毒でさせなかった説、そして、討ち入り後、大石内蔵助あたりから、なんらかの密命を受け、打ち入りのi生き証人として、後々まで生きて欲しいことになったというのです。果たして真実はどれだっかのかは寺坂が何も言わなかったので解らないそうですが、こんな話初耳の方沢山おられるに違いありません。一読をお勧めします。

中原中也にからまれた太宰治

 出版社は凄い本を出すものです。1919年6月21日に出版された「文豪たちの悪口本」というタイトルの暴露本。滅法面白く、この中から詩人の中原中也にからまれた太宰治を紹介しましょう。恐らく、あの有名な「汚れちまった悲しみ」がお好きな方はびっくりされるに違いありません。

 はるか昔の青春時代のことで、忘れている方に少しだけこの詩を書き出します。「汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる 汚れつちまつた悲しみは たとへば狐の革裘 汚れつちまつた悲しみは 小雪のかかつてちぢこまる

 この繊細な詩を書いた中原中也をお好きな方はいっぱいおられるでしょう。ところが中也は詩とはウラハラのようで、中也を尊敬していた太宰治は、初対面の中也に「何だ、おめえは。蒼鯖(あおさば)が空に浮かんだような顔をしやがって。と言われてろくに話しも出来なかったというから驚きです。

 また、太宰治が中也に好きな花を聞かれた時の会話「全体、おめえは何の花が好きなんだい?に太宰はドモって「モ、モ、ノ、ハ、ナ」」と答えると、中也はチェッ、だからおめえは。と言われたそうですから後何も言えません。更に「君は俺に対して、馬鹿丁寧言葉を使うなぁ、俺はその丁寧な言葉という奴が大嫌いなんだ」と言われて太宰治はどうしたかは書いてありません。では中原中也太宰治の映像です。

 

ノーベル賞の愉快なパロディ

 世界には「イグノーベル賞」というのがあって、日本はこの賞の受賞の常連であるのをご存知でしょうか。もし知らない方はまず「イグノーベル賞」のウィキペディアをお読みになって下さい。人々を笑わせ、そして、考えさせる研究に与えられる1991年に創設された賞で、「ノーベル賞のパロディ」とも言われて」います。

 ところで、作年2020年12月21日に五十嵐杏南著「ヘンな科学」(総合法令出版㈱)という本が出版されていて、受賞したこの「イグノーベル賞」を40も集めているのです。中に「イグノーベル賞誕生秘話」というコラムがあるので掻い摘んで紹介しましょう。

 《そもそも事の始まりは、イグノーベル賞創設者のマーク・エイブラハムさんが始めた副業にあるんだそうです。マークさんは、ハーバード大学の応用数学科(ビル・ゲイツはここの一年先輩)を卒業してプログラマーとして働いた働いた後、ソフトウェア会社を立ち上げました。そして、マークさんの趣味は科学ネタについての文章を書くことだったのです。しかし、文章を書いても出版してくれる会社が思いつかず、あるコラムニストの紹介で始めた雑誌が扱ってくれたのです》

   ともかく、「イグノーベル賞」はいつしか有名になり、毎年、9月もしくは10月に受賞式がありこれが中々ユニークでニュースになるのです。ネットにある幾つかのYouTube(    )をリンクしますのでご覧になって下さい。こういった知的な遊び大好きです。

 

悲しい悲しい和田誠氏の訃報

 映画が好きで好きで堪らない私が、宝物のように大切にしている本に、映画評論家山田宏一とイラストレーターで、二年前、他界された和田誠との映画の対談[たかが映画じゃないか]という文藝春秋社出版の単行本を持ってます。奥付を見ると、ⅰ978年12月10日出版ですからもう40年も前の本です。

 映画評論家の山田宏一の対談の相手は、いつも「週刊文春」の表紙を描いていた和田誠。何で画家が映画を語って分厚い単行本を出版しているかと言う疑問を持たれた方は、和田誠という人物をご存じないのに間違いありません。何しろ、映画に関する知識たるや専門の映画評論家が脱帽すると言っても過言ではないのです。

 それが証拠に、この本の初めに山田宏一さんは「和田誠と映画を語るとき」という一文を書いていて、「ぼくは、和田誠を知ったとき、彼があのハッピーな感覚にあふれた絵がぼくに生きる気力吹きこんだのである。つまり、和田誠という、無類の映画好きの、だからこそ映画について果てしなく語り合える友人を得たことを意味しています。

 そうなんです。和田誠さんは本当に映画が好きで、この本以外にもいっぱい映画の本を書いています。もし、私が和田誠さんと語れる機会があったら(あり得ない!)、絶対に私と映画を語って頂けませんかと頼んでいたことでしょう。すると、和田さんは、恐らく気軽に応じてくれた気がしています。二年前、和田誠さんの訃報を知った時、私はもう新しい本が読めなくなったなったのが悲しくて涙がいつまでも止まりませんでした。それほど和田誠さんのファンなのです。では、夫の和田誠氏を語る平野レミさんです。

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