無料ブログはココログ

« 2021年9月 | トップページ | 2021年11月 »

藤原定家と百人一首の豆知識

 寒い季節は、どちらも池袋西武デパート地下にある「とらや」の羊羹や「小倉山荘」のお煎餅を熱いお茶で頂くのが最高だと思っています。今日は百人一首がお好きな方に会社名が何と「㈱小倉山荘」というお煎餅屋さんと、百人一首の豆知識を合わせて紹介しましょう。このお煎餅屋の目玉商品の名前は「をぐら山春秋」。

 小さなお煎餅が八枚、薄いビニールのお皿に入れてあって、お皿に一枚一枚「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」などと印刷してあり、お煎餅と百人一首が同時に楽しめる仕組みです。そして、もう一つ、一枚だけザラメ煎餅が入っていて全体の味を引き立てています。ところで、百人一首を語るには、1221年に起きた「承久の乱」まで遡らなければなりません。

 当時、鎌倉幕府の執権だった北条義時に対し後鳥羽天皇が兵を挙げて戦い(承久の乱)、敗れて島流しにされるのです。後鳥羽天皇は和歌の達人で、和歌が好きな藤原定家と親交がありました。ともかく、和歌を教えたのは後鳥羽天皇で百人一首は後鳥羽天皇の鎮魂のために作ったという研究者がいるくらいです。

 定家は99番に後鳥羽天皇の「人もをし 人も恨めし あち”きなく 世を思ふゆえに もの思ふ身は」、そして最期の100番に息子の順徳天皇の「百敷や 古き軒端のしのぶにも なほあまりある 昔なりけり」を入れ、藤原定家自身は97番に「こぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」を入れました。多分、「こぬ人は」後鳥羽天皇です。本当に小倉百人一首大好きですべて紹介しましょう。

歴史学者の悦は古文書の発見

 歴史学者磯田道史著「日本史の内幕」(中央公論新社)の中に、徳川家康が1572年に武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いの真相という一文があるので紹介しましょう。何しろ家康はうまく浜松城に逃げ込み、負けはしたものの命は落とさなずに生き延びたのです。もし、この時、家康が命を落としていたら日本の歴史は大きく変わっていたはずです。

   通説では、この戦いの武田信玄軍は二万人~三万人、徳川家康軍は八千人と言われていて、徳川軍には織田信長の援軍が三千人いたそうですが、人数では最初から家康軍には勝ちみが無かったようです。しかし、歴史学者の磯田氏は、この人数が記録された古文書を沢山読んでいて、どうやら、文書による違いがあるようです。

   中には、家康は劣勢を覚悟の上で出陣したとされているようですが、実際は無謀ではなく、織田信長の援軍は三千人どころではなかったと書いた古文書もあり、磯田氏は情報は権力の都合で操作されるので、後日の情報公開とセットにして判断しないと検証は不可能と書いています。

   それにしても、磯田氏は「四戦紀聞」「改正三河後風土記」「甲陽軍鑑」「三河物語」「前橋酒井家旧蔵聞書」などの古文書をいっぱい読んでいて、どこかで人数の違う本を見つけて「おやおやこんなに違うことを書いてる」と仰天するのも歴史学者の醍醐味かも知れません。でも、本のお金もいっぱい掛かる仕事のような気がします。

天才の判断ミス「最後の晩餐」

  「あなたの知らない世界遺産のミステリー」(河出書房新社)という本から世界遺産の「最期の晩餐」について書きます。レオナルド・ダ・ヴィンチといえば、誰でも真っ先に思い浮かべるのは「モナリザ」でしょう、しかし、もう一点、「モナリザ」と並んで有名な「最期の晩餐」を忘れてはいけません。

   この絵は イタリアのミラノにある「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院」の食堂に描かれた壁画で、ダ・ヴィンチが1495年から制作に取りかかり、1498年に完成しています。ところが、ダ・ヴィンチは、普通、壁画を描く時に使うフレスコ技法を使用しない致命的なミスを犯してしまったのです。

  そのため、劣化が激しく、すでに生存中からその劣化が始まっているのにダ・ヴィンチのコメントは一つも残っていません。きっと口にするのさえ恥ずかしかったのでしょう。ともかく天才が比類ない傑作を描こうと用いた手法が裏目に出て、絵の寿命を早めることになってしまったのです。天才でもこういうことがあるのを知りびっくりしました。

 それにしてもこの絵を朽ち果てさせてはならないと1970年代末に大規模な修復作業が行われ、最新の科学技術を駆使して、カビを取り除くなど必死の努力を続けた結果、1999年5月にダ・ヴィンチのオリジナルの姿に戻したそうです。では「最期の晩餐」をじっくりご覧になって下さい。ちなみにキリストの処刑前夜を描いた画家はダ・ヴィンチ以外にもかなり沢山いるようです。

 

« 2021年9月 | トップページ | 2021年11月 »