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夢の様なテレビ将棋を観戦

  このところ、NHKのテレビ将棋のトーナメントは、例のコロナウイルスの関係か放映が中断されて将棋ファンは寂しい思いをしています。それを慰めるためなのか、5月24日(日)、NHKはすでに1988年12月に放映した「大山九段対羽生五段」(何と五段の時代です)という凄い対局を、再度、放映したのです。

  何しろ、32年前の対局ですから、結果が頭に残ってるはずもなく、また、NHKが沢山持っている対局のデータベースの中からまさか、目下、大活躍の羽生五段が負けた対局を選ぶはずもも無いのははっきりしています。ともかく、将棋ファンが見逃す可能性は絶対に無いと言ってもいい将棋、私はHDDに録画した映像を、昨日、観ました。

  この将棋の展開は、大山康晴九段の中飛車で始まり、羽生善治五段の僅かなスキをついた大山九段の攻め、そして、羽生五段が巧みに受けて、大山九段が勝つ可能性がなくなってしまい投了せざる得なくなったのです。つまり、キレた将棋です。さすがNHKは、いい将棋を選んだものだと感心するばかりです。

  大山九段の対局の場面を観ていたら、懐かしくて堪らなくなりました。ともかく舛田幸三九段との死闘は有名で探したら棋譜の動画がありました。恐らく将棋の好きな人にとっては大変な贈り物でしょう。さて今回は最初から羽生五段の負けた将棋は見せないだろうという先入観があったのでカチマケは度外視して観ましたが面白かったです。それにしても、棋譜読み上げの蛸島五段、久しぶりに画面で見ましたが懐かしかったです。

親友の夏目漱石と正岡子規

  文豪夏目漱石と俳人正岡子規が親友だったのは有名です。今日はネットをベースに二人の人生を追ってみました。二人が初めて出合ったのは、東大予備門の同窓生だった22歳の頃で、二人は落語が好きで、一緒に寄席に行くことで仲を深めたのです。子規は幼少の頃、寄席に行くため塾をサボり母親から大目玉をくらったことがあります。

  何しろ、二人はよく気が合い、子規が自分の俳句や短歌を集めた「七夕集」を作り漱石が眼を通した際、漱石は漢文を使った評論を書いて、子規に「得意なのは英語だけではないのか」と感心させた逸話もあります。やがて二人は無事に東大に入学しましたが、子規は中退して新聞記者、漱石は卒業して英語教師になりました。

  二人はしばらく別の道を歩んでいましたが、同い年の二人は28歳の時に再会します。そして、漱石が子規の故郷の愛媛県松山市の中学校に赴任した折、子規を自分の下宿先に招き入れ、それを機会に52日間の同居生活が始まります。一緒に暮らすのはかなり気心が分かってないと出来ません。

  やがて漱石はイギリスに留学し、二人は手紙のみの関係になってしまいます。それに、子規は持病の結核が悪化して、苦しい生活を余儀なくされていましたが、周囲には弱音を見せず、漱石は安サリーマンの子規をお金の面でも助けていたようです。では、「正岡子規俳句集」と「夏目漱石俳句集」です。「これ見よと 云はぬ許りに 月が出る」いかにも漱石らしい俳句です。

「週刊文春」の「カケてる検事」

 「週刊文春」5月28日号を買いました。《黒川検事長は接待賭けマージャン常習犯》と題された特集記事が載っている週刊誌です。それにしても、週刊誌はうまい言葉を考えるもので、黒川検事長が駆けてるような急ぎ足で、現場に向かっている写真が載っています。つまり、カケているのです。

 お読みになって無い方のために、この記事の一部を紹介すると、書き出しは《五月一日夜七時半、黒いスーツにノーネクタイ、マスク姿の男性が、隅田川のほとりにある、茶色の瀟洒なマンションの前に現れた。……》。勿論、黒川検事長がマージャン現場に向かっているところです。

  何しろ、法律のプロと言える検事がこれからカケマージャンをしようとしてる写真を簡単に撮られてしまうことに驚きます。その写真が公開されれば大変なことになるのは、充分に知ってるはずなのに、写真を撮られたことにまったく気がついていないとは、「びっくり仰天」を100回位並べて書きたいほどです。

 しかも、相手は何と新聞記者。「週刊文春」はこの情報をかなり前に入手して、「時こそきたれこのあした」と「てぐすねひいて」待ちに待っていたに違いないのに、モノの見事に見つかってしまったのです。「週刊文春」の宣伝になってしまいますが、これから先は買ってお読みになって下さい。世の中、解らないところで何が起きているか知って驚きます。それにしても、「週刊文春」のウデいつも鮮やかです。

江戸時代や明治の喫茶店

  ウィキペディアによると、日本でコーヒーを飲みながら語る憩の場としての喫茶店は江戸時代にもあったようです。そもそも、コーヒーが日本に入ってきたのは5代将軍徳川綱吉の時代で、いたるところで見られるような本格的な喫茶店としての形態を初めて持ったのは、1888年(明治21年)に開店した「可否茶館」。

 それから、しばらく経った1911年(明治44年)に画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして開店した「カフェ・プランタン」をはじめ、「カフェ・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェ・ライオン」などカフェと称する店が相次いで誕生します。

   日本初のカフェとしてオープンした「カフェ・プランタン」は経営の安定化を図るために維持会員を募る方式を採用、会費は50銭で、会員には、森鴎外、岡本綺堂、永井荷風、正宗白鳥、小山内薫、島村抱月、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、谷崎潤一郎など、当時の有名な文化人が多数いたようです。

  そして、「カフェ・ライオン」の特筆すべき点は、女性給仕(ウェイトレス)のサービスにありました。和服にエプロンを纏った若い女給が客の話相手となったこの店は、いわゆるカフェを代表する存在で、後年の美人喫茶やメイドカフェのはしりとなったという見方もあります。ところで、現在、渋谷の道玄坂にある名曲喫茶「ライオン」は1926年(昭和元年)に創業なので、どうやらこの喫茶店とはまったく関係がなさそうです。ところで、かなり前に非常にクラシックに詳しい友人とほんとに小さな会話を交わし、人差し指を口に当てられて店員に注意されたことをふと思い出しました。

 

「天声人語」と「コロナの自粛」

 昨日5月22日付朝日新聞「天声人語」に17世紀、英国で猛威をふるったペストのことが書いてあったのでお読みになって無い方のために紹介します。この時代、若かったニュートンは住んでいたロンドンを離れ、郷里の村に避難。つまり、自粛生活に入ったわけで、ニュートンの万有引力の法則は、この間に生まれたのです。

  そのほか、微積分と光学という画期的な発見もこの時代で、東京理科大学の川村康文教授は「もしペスト疎開をしていなかったら、20代前半の短期間に発見を三つも成し遂げられなかったかも知れません」と言ってます。この時代、ニュートンは学位を得たばかりで、大学の閉鎖がかえって思考を深めてくれたかも知れないのです。

  自粛中のニュートンは、昼間、農場の納屋にこもり、穴から差し込む陽光は白いのに、壁に映るのが七色なのはなぜだろうと考えた末に、光の正体は屈折率の異なる線だと発見したのです。ペストが去った後、ニュートンは大学に戻って研究に打ち込みますが、自粛中に成し遂げた眼が覚めるような大発見は無かったようです。

  きのう、大阪、京都、兵庫の3府県で緊急事態宣言が解かれましたが、首都圏や北海道ではなお自粛が求められています。《コロナ禍で日常が一変してしまい、学びに没頭出来ないと悩む若者も少なくないだろう。……でもここは発想を転換して、後世の歴史家から「コロナ時代のニュートン」と称賛されるような才能と出合いたいものである》で「天声人語」を結んでいます。さすが「天声人語」の著者は上手に筆を運ぶものです。

トランプ大統領が服用の薬

 トランプ大統領が新型コロナウイルスの予防に、抗マラリア薬「ヒドロキシクロロキン」を服用していると発言し話題になっています。しかし、この薬は新型コロナウイルスに対する効果はまだ未確認で、医薬品当局は心臓への悪影響など副作用があるから飲まない方がいいと警告しているのにです。

  トランプ氏は、記者団に「ヒドロキシクロロキン」をどれほど大勢が使っているか知ったら、びっくりするぞ」と自信満々。「感染する前に、特に最前線で働く人たちが、大勢が使っていて僕自身も使っている」と話したそうです。記者にこの薬についてどういう証拠があるのか質問されると、トランプ氏は「大勢が使ってよかったと電話してくる。それが証拠だ」と答えています。

 そして、《「ヒドロキシクロロキン」についていい話をたくさん聞いている。もし良くなくても、僕は傷つかないとも述べています。深刻な副作用が出る可能性を指摘されると、トランプ氏は今のところ僕は大丈夫そうだ。そうとしか言いようがないと答え、自分が聞いた「ヒドロキシクロロキン」の唯一の良くない話はトランプの大ファンじゃない連中がまとめたとても非科学的な報告だけだと述べています。

 何しろ、トランプ氏が触れたこの報告とは、アメリカ各地の退役軍人国立病院の新型コロナウイルス患者に対して4月に行われた予備調査のことと思われ、「ヒドロキシクロロキン」の使用よる効果はみられず、むしろ致死率が高くなったと結論しているのです。このことについてもっと詳しく知りたい方は本文をお読みになって下さい。

 

ズブの素人主演のテロ映画

 クリント・イーストウッド監督が2018年に制作した「15時17分、パリ行き」という映画をご存知でしょうか。つい最近、江古田駅近くの「ブックオフ」で見つけたDVD、ジャケットの裏に書いてある紹介記事をそのまま書くのがいいかの知れません。まったく予備知識が無く見つけびっくりです。

  ジャケットの説明は《2015年8月21日、世界中がそのニュースに釘付けになった。パリ行き高速列車タリス9364号で起きた列車テロ事件、その企てを阻止したのは3人の勇敢なアメリカの青年だったが、本作でその英雄を演じているのは、他ならぬ当事者本人たちである。

  少年時代から、思い掛けない経緯でテロに遭遇するまで、3人が互いに織りなす人生を追うのは監督のクリント・イーストウッド。3人にとってこの危機における最大の武器は友情であり、その勇気は実に500人以上の乗客を大惨事から救ったのだった》。つまり、3人のアメリカ人が危機を未然に防いだのです。

  この事件を知ったイーストウッドは、この実話を基に映画を作ることを企画し、出演者は俳優では無くて、実際に列車内で闘った三人の青年に出演を依頼することにしたのです。勿論、三人は演技の経験などまったくありません。青年たちは、天下のイーストウッドからの連絡に驚きながら依頼を承諾して映画が完成しました。この映画の「映画大辞典」、結構、いい点が付いているのでご覧になって下さい。調べたら「TSUTAYA」(03-5946-0140)にレンタルDVDがあるので借りられます。

井上陽水の言葉は超魅力的

   一ヶ月ほど前に、井上陽水が玉置浩二と1986年8月に神宮球場でジョイントコンサートを行ったことをブログに書きました。実は、このコンサートのDVD持っていて時々観ます。暮れなずむ球場を埋め尽くした大観衆。そして、東京大学を卒業し、明治大学教授の斎藤孝さんが書いた「軽くて深い井上陽水の言葉」という本を持っていて、今日はその話をします。

  斎藤さんと同じに、私も井上陽水の歌詞に魅せられている一人で、例えば「少年時代」、《夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に 残された 私の心は 夏模様 夢が覚め 夜の中 永い冬が 窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき 夏まつり 宵かがり 胸の高なりに 合わせて 八月は 夢花火 私の心は 夏模様》。

 斎藤さんはこう書いています。冒頭に登場する「風あざみ」について、そんな名前の植物はないとか、こんな言葉は辞書にないとか、巷間いろいろいわれている。陽水さんにとっては、その言葉が実際にあるかはあまり大した問題ではなくて、歌としてどれだけ人の心に心地よく響きわたるかのほうがはるかに大事だったのだと思う。

  本当に心に心地よく響き渡っています。そこで、もう一つ、陽水さんが作詞して、玉置浩二さんが作曲した「ワインレッドの心」の出だしを書きます。《もっと勝手に恋したり もっとKissを楽しんだり 忘れそうな想い出を そっと抱いているより 忘れてしまえば 今以上それ以上愛されるのに……》。なんという素敵な言葉でしょう。どうしてもこの二曲、聴いて頂きたくなりアップしました。恐らく誰も井上陽水さんの言葉の力に圧倒されるのは間違いありません。

検察庁法改正に驚きの抗議

 昨日の朝日新聞に、検察幹部の定年延長の法改正案を巡り、最初は法務大臣が出席しない予定が15日の審議には、急遽、出ることになったとありました。それにしても、定年を延長しようとする法案に「検察庁法改正案に抗議します」の世論が異常に多いのは、どんな理由で反対してるのか首を傾げた方が沢山いるに違いありません。

  そこで、ネットを探したら《「検察庁法改正案に抗議します」は本当に世論のうねり?東大准教授にTwitter分析を聞いた》という次のような文章がありましたのでちょっとお読みになって下さい。もしかしたら、これを読んだ方は「やっぱり不思議に思ってる方がいるんだぁ」と納得するかも知れません。

 《5月8日から現れたTwitterの「検察庁法改正案に抗議します」。このハッシュタグ投稿が爆発的に増え、トレンド入りした。わずか3日弱で470万件のツイート。この膨大な数を挙げ「抗議殺到だ」とする主張がある一方、一人が数千のツイートで、抗議の数としては疑わしい」という声もあります。

 何しろ、わずかの間に圧倒的な多数のツイート。この膨大な数を挙げ「抗議殺到だ」とする主張がある一方、抗議の数としては疑わしい」という声がある。……》。恐らく、これを読んで準教授の意見に賛同された方が沢山おられると思いました。一体、これはどんな現象なのでしょうか。

観客が皆無の大相撲春場所

 いやはや、新型コロナウイルスは、令和二年春場所を「無観客」で開催せざるを得なくしました。日本相撲協会は議論を重ね。三月一日、無観客での開催を決断したのです。「文藝春秋」五月号に、相撲ライターの佐藤祥子さんが《大相撲戦後初「無観客場所」潜入日記》という一文を書き、読むと面白いので、ブログにアップしたくなりました。

  何しろ、約650名の力士、約100名の親方、行司、床山、呼出しら約150名、若者頭、世話人も含めると約1000名になる協会員の中から一人でも新型コロナウイルスの感染者が出たら、直ちに中止することを条件に、賛否両論が渦巻く中で、大相撲春場所は決行されたのです。

  力士や親方などの協会員は、一日に二度の検温が義務づけられ、三十七度以上の熱が二日間続いた力士は出場させない方針。報道陣も入館時は手首の消毒と検温が必須で、一度退館すると再入場は出来ません。また、土俵溜の勝負審判脇での撮影は不可。場内の案内は近大相撲部四年生のアルバイトです。

  シーンと静まり返る中での取組は、独特の緊張感が漂い、今、人気が高い炎鵬に無観客の感想を聞くと「やはり、声援の無いのは寂しいですね。闘争心が出なかったというか、いつもお客さんから力を貰っていたことが解りました。……」と。そして、千秋楽の協会ご挨拶で、「本日は……」と口を開いた理事長は、声を詰まらせ、何かを堪えるかのように十秒ほど無言で口元を引き締めたそうです。さて、次の場所はどうなるのでしょうか。給料を支払う協会に入場料もNHKからもお金が入らないのが心配です。

巌流島の決闘後の小次郎

 家の近くのコンビニ「ファミリーマート」で、面白い新書判の本を見つけよく買ってきます。つい最近、発見したのは、日本史探究倶楽部著「日本史の意外なその後」。今回、拙ブログ「ドアのない談話室」にアップしたくなったのは《巌流島の決闘後も生きていた?悲運の剣士》という佐々木小次郎の話です。

  宮本武藏と佐々木小次郎が剣豪として勝負した「巌流島の決闘」は、吉川英治の小説のみならず、伝記、ドラマ、映画などで数多く取り上げられています。通説では最初の一撃で勝負がつき、武藏が勝って小次郎はその場で息絶えたことになっていますが、実際はそうでなかったとこの本にあります。

 その状況を本に書いてある通りにコピーすると《決闘に敗れた小次郎だったが、その場で死んだのではなかった。重傷を負ってはいただろうが、武藏が立ち去った後も生きていたのである。そこに現れたのが武藏の弟子たちだった。多人数で小次郎に襲いかかり、ついに絶命させたのだった。……》。

  佐々木小次郎は、武者修行のために諸国を遍歴し、越前国の一番瀧で「燕返し」を編み出して巌流という流派を創始したとされています。ともかく、小次郎が武藏と決闘した時、すでに60歳近くになったいて武藏はまだ20代。小次郎の妻は夫の遺髪を届けられた後、山陰地方へ逃れ、現在の山口県の正法寺に身を寄せ、剃髪して尼になったそうです。こんな話を知ることが出来る本を売っているコンビニいいです。

現実的な火星への移住計画

  2020年4月25日、NHKテレビで放映した「火星への移住計画の道」という番組を録画して観ました。まさか、地球は新型コロナウイルスにおびやかされているので、いっそ、火星に移住しようとNASAで働いている人達が考えたこととは思えませんが、何だか現実味を帯びてる内容だったのでちょっと紹介したくなりました。

  それには、まず火星について語らねばななりません。火星はかなり昔から、火星人がいるとかいないとか何かと話題になった惑星で、生物の存在に不可欠の水が探査の結果、現在は流れていないようです。でも、何十億年前は水があった痕跡があるようですから、過去、生物の存在はあながち、絶対にゼロとは言えないような気がします。

  ところで、ネットをよく探したら「地球と火星の共通点」というサイトがありましたので、それから少し説明します。まず、火星は同じ惑星の仲間でも、木星のようなガスを纏った惑星ではなく、表面が酸化ケイ素・金属類で出来ています。それに、火星には二酸化炭素の大気があり、永久凍土が存在します。

   また、オリンポス山、タルシス山脈のようなホットスポットがあり、北極や南極に氷が存在し、フォボスやダイナモなどの衛星も周りを回っているのです。それにテレビでこの映像を観ていて驚いたのは、世界でこの移住計画に参加しているのはNASAだけではなく、人間が火星の重力に耐え得るかの実験に着手している国もあることでした。では「火星の移民」というサイトをご覧になって火星に思いをはせて下さい。

「いいえ」が言えない日本人

 親子三代にわたる日本語学者金田一春彦著「日本語を反省してみませんか」(角川書店)という本に日本人の「はい」と「いいえ」について書いてあるので、ちょっとブログでそのことを話したくなりました。金田一さんは、まず、聖徳太子の第17条の憲法の第1条に「和ヲ以テ尊シト為ス」と言ってます。

 日本人は、相手と同じ意見であることを非常に好み、会話をしながらもお互いに気持が一致していることを喜ぶのです。そこで、日本人は「……だねぇ」「……ですねぇ」などといって、相手が自分に同意してくれると嬉しくなる習性があるのです、つまり、相手の共感を求めて、あいづちを期待するのです。

  これはどういうことかというと、例えば相手から「コーヒーをお飲みになりませんか?」と誘われた場合、「いいえ、私は眠れなくなるといけないので飲みません」とは言えずに「はい、でも、ちょっと眠れなくなるタチなので、申し訳ないのですが止めておきましょう」とおもむろに断るのです。

  日本人がふだんの会話で「いいえ」と言うのは、二つの場合だけで、一つは、へりくだる時で例えば「あなたは英語がよくお出来になりますね」と言うと「いいえ、とんでもありません。私など……」と。もう一つは、相手を励ましたり慰める時で、例えば「私はやっぱりダメな人間です」といった時「いいえ、あなたは本当は力があるんですよ」と言ってくれるのです。本当に日本人はいいヒトです。

「吾妻鏡」と源義経と静御前

  鎌倉幕府が編纂した「吾妻鏡」によると、1180年(治承4年)源頼朝挙兵、1185年(元暦2年)平家滅亡(屋島・壇ノ浦)、義経逃亡、1186年(文治2年)静鶴岡に舞う 、1189年(文治5年)義経殺害、奥州藤原氏滅亡。さて、この中に登場する義経と静御前のことを書きます。、

  この物語の骨子になっているのは《静御前、義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子》というタイトルの永井路子の対談集です。そもそも、二人の馴れ初めは、静が京都で踊りを舞う「白拍子」という職業をしていた時に始まります。年齢は義経が20代後半、静は10代の後半のことでした。

  ところで、二人が幸せだったのは極めて短い間で、義経が、後白河法皇から勝手に任官を受けたことなどから、兄頼朝の不興を買って謀反人扱いされたことにより、急転直下、悲劇の主人公になってしまうのです。京都を追われ、都落ちした義経らですが、静は女人禁制の吉野山に入れず、しかも、捕らえられてしまいます。

 そこで、詠んだのが《吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき》.つまり、静はこの吉野山の入口で義経と別れ、これが二度と会えない永遠の決別になってしまうのです。何と二人の恋は切ないのでしょう。もっと、二人のことを知りたい方は、本文を読んで、頼朝の奥さん、北条政子の人を思いやる優しさを知って下さい。静の命はきっと政子によって助けられたに違いありません。

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