無料ブログはココログ

« 京急線の踏切事故の一考察 | トップページ | ラグビーのルール変更の最新 »

秀吉の莫大な金銀の行方

 歴史学者の磯田道史氏の書いている本、どれを読んでも歴史が好きな私にとって、面白くて堪りません。ことに2017年10月に発刊した「日本史の内幕」が好きで、何度も繰り返し読んでいます。この中に「豊臣の金銀の行方」というタイトルの一文があり、多くの方が興味ありそうなのでブログにアップします。

 豊臣秀吉は莫大な金銀を蓄えていましたが、豊臣が滅亡の時、その金銀がどうなったのかで、磯田氏は藤堂高虎のことを調べているうちに様々な資料に行き当たったそうです。藤堂は伊勢・伊賀(三重県)の大名。徳川家康の天下取りの謀略を支えた人物で、豊臣を滅ぼしたのは藤堂の心入れのお陰です。

  何しろ、藤堂は豊臣大阪城攻めに先鋒として参戦し、伊賀から50人もの忍びの者を連れてきて、家康に敵の動きを知らせたのです。そして、同じ先鋒の井伊直孝も忍びの者30人。忍者の人数では藤堂の方が勝っていましたが、大坂城の家康の諜報は忍者80人の活躍によって得たものです。

  ともかく、家康は大坂方の作戦計画も知っていて《この時点で、家康にとっての問題は落城時に大阪城内にいる孫娘の千姫の身柄と豊臣家の莫大な金銀を、どう確保するかだったのです。そこで家康は先鋒の藤堂と井伊に「大阪城落城の焼け跡の千枚分銅は徳川将軍家に召し上げる。そのほか焼け跡の溶けて湯になっている金銀は藤堂と井伊にやる》。どうやら、大阪城の焼け跡の金銀は家康の指示の通りになったと思われます。

« 京急線の踏切事故の一考察 | トップページ | ラグビーのルール変更の最新 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 京急線の踏切事故の一考察 | トップページ | ラグビーのルール変更の最新 »