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色々な説がある源頼朝の末路

   たまには1000年前に思いをはせるのも無駄ではないでしょう。700年に及ぶ武家政治の基礎を作った源頼朝。しかし、その末路はまことにあっけないものでした。鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」によると、正治1年(1199年)12月、頼朝は相模川の橋供養に臨席したのです。

   そして、その帰路、頼朝は何と落馬して、翌年の1月13日にこの世を去ったとあるそうですが、14世紀半ばに書かれた「保暦間記」には、頼朝は平家一門や義経など源氏の同族たちの亡霊の祟りにより発病して亡くなったと書いてあるそうです。きっと、落馬はカッコ悪いので病死にしたのかも知れません。

   また、百人一首で有名な藤原定家の日記「名月記」によると、頼朝が亡くなってわずか7日後、まるで頼朝の死を見越していたような手際よさで、頼朝派の一掃を朝廷が行ったことが書いてあり、その主導者の土御門通親が頼朝をこの世から消した張本人という説があるそうです。

   そのほか、頼朝がある女性と密会しているのを知った警護の安達盛長に斬られたという説もあり、しかもこれは頼朝の浮気癖に怒った妻、北条政子の差し金とも言われているそうですから驚きです。いずれにしても源頼朝の最後は虚しいものでした。以上、小和田哲男監修「400字で読むあらすじ日本史」からの引用です。

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