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明智光秀は永く生きていた説

   本屋の店頭で小和田哲男監修「400字で読むあらすじ日本史」という本を見つけ買ってきました。というのは、この本に「明智光秀は死んでいなかった!?」というコラムが眼に留まり、家でじっくり読みたかったからです。天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺で主君、織田信長を殺めました。

   この情報を知った豊臣秀吉は、かの有名な「中国大返し」によって戻り、明智光秀を山崎の戦いで破って、その逃走途中に落ち武者狩りで命を落としたというのが、歴史上の定説になっています。そして、光秀の首は本能寺の焼け跡にさらされていたということになっているのです。

   ところが、この首は偽物で、光秀本人はその後もずっと生きていたことが、江戸時代の随筆「翁草」に書いてあるというのです。では、光秀は宿敵秀吉の治世下をどうやって生きていたかというと、徳川家康のブレーンとして活躍した天海僧正その人こそ明智光秀だったという説があるのだとか。

   その証拠として、天海が造営に携わった日光の東照宮には、明智家の家紋である桔梗紋があることや、日光の明智平を命名したのが天海であることを見ても、天海と明智光秀が同一人物の可能性があるというのです。小和田氏はこの一文を《天下支配の夢破れた光秀が家康の下で天下経営に参加してたのはロマンがある話である》で結んでいます。歴史は実に面白いです。
 

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