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お札に「文化人」は平和な証拠

   日本で最も高額の紙幣の一万円札に描かれている人物は慶應義塾大学の創立者、福澤諭吉ですが、この写真は、実は本人が「指定」したものなんだそうです。と言っても、勿論、「後世、お札の顔として使って欲しい」と頼んだということではなく、「何か私の写真が必要な時はこれを使って欲しい」と「指定」していたのだとか。

   ところで、ネットに日本銀行下関支店長岩下直行氏という方が「お札になった文化人」 というタイトルで、お札に登場している人物のことを書いています。言うまでもなく、一万円札には先に書いた福沢諭吉、五千円札には樋口一葉、千円札には野口英世の肖像が描かれていて三人共「文化人」です。

   日本で「文化人」がお札に登場するようになったのは割と最近のことで、これまでお札に登場した歴史上の人物は16人いるそうですが、このうち1984年より前の11人は、いずれも政治家や国の指導者に当たる人物でした。つまり、約百年間にわたり、日本のお札には政治家の肖像が描かれ続けていたのです。

   その慣習が破られたのが1984年で、福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石の3人を描いたお札が発行され、初めて「文化人」がお札に登場したのです。現在、流通しているお札は、2004年に発行された、2回目の「文化人」シリーズに当たるそうですが、さて次は誰が登場するか楽しみです。

犬が異常に好きだった首相

   戦後、日本の再興に大いに貢献した政治家、吉田茂は異常に犬が好きだったのは有名な話です。何しろ、5度にわたって内閣を組閣し、その功績により、戦後で、唯一、国葬で葬られた人物です。ともかく、犬に関するエピソードがとても多く、中でも有名なのは、「サンフランシスコ平和条約」を締結した時の話です。

   昭和26年(1951年)9月、吉田は条約を結ぶためアメリカに行った時、記念につがいのケアン・テリアを買って帰ってきました。そして、吉田はこの2頭に「サン」と「フラン」と命名し、つがいに子供が生まれると、その名前を「シスコ」にしました。つまり、吉田は犬の名前で条約を祝福したのです。

   また、こんな話もあります。当時の人気ドラマ「少年ジェット」にシェーン号というシェパード犬が出演していて、吉田はその姿に魅了されたのです。吉田は元々はシェーン号が欲しかったようですが、シェーン号には、勿論、飼い主がいて、首相と言えども譲ってもらうことはできませんでした。

   それではと、シェーン号の子供を引き取ろうとしましたが、こちらもすでに希望者がいて交渉は不成立。吉田はがっくりと肩を落としていたそうですが、そこに朗報が入り、女優の若尾文子さんの愛犬がシェーン号の子供を身ごもっているというのです。吉田はすぐ若尾さんに連絡を取り、晴れて子犬をゲットしたそうです。では、終戦から吉田茂が「サンフランシスコ平和条約」を締結してこの世を去るまでの映像をじっくりご覧になって下さい。

忍者が探った赤穂浪士の動向

   「武士の家計簿」の原作者で歴史学者の磯田道史著「歴史の愉しみ方」(中央公論新社)実に面白いです。この本の第1章は忍者の話で、中でも今まで読んだことがない忍者が大石内蔵助など赤穂浪士の動向を探る話など夢中になって読み、ブログにどうしても書きたくなりました。

   忍者と言えば岡山藩の伊賀忍者、そして、赤穂は岡山の隣の藩で、実は岡山藩の忍者は赤穂事件に巻き込まれていたというのです。何しろ、大石内蔵助のお母さんは岡山藩家老の娘で、そのため、岡山藩は浅野内匠頭の刃傷事件に遭遇して大騒ぎとなりました。というのは、家中には大石の親戚が多くいたためです。

   そこで、親戚のよしみで赤穂の大石のもとに馳せ参じる者が出るのではないかとか、もしかしたら、大石が赤穂城を明け渡さずに籠城するのではないかとか、岡山藩の殿様や家老はずいぶん心配したようです。そこで。活躍したのが岡山藩の伊賀忍者、赤穂城下への潜入には三人の忍者が選ばれました。

   彼らの能力は高く、3月20日の午後に岡山を発ち、夜通し駆けて赤穂に着き21日中情報を収集して22日には岡山に戻って第一報をもたらしています。その中には大石らが鉄砲を自分の屋敷の庭に並べて売り払っているという情報もあり「大石たちに籠城する気無し」と判断したようです。この話、実に面白かったです。

超楽しい「イグ・ノーベル賞」

   今朝、見るともなくテレビを見ていたら、日本テレビで「イグ・ノーベル賞」のことを放映していました。ちょっと、ウィキペディアの「イグ・ノーベル賞」の項目をご覧になって下さい。1991年に創設された「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられるノーベル賞のパロディーです。

   なぜか、日本人の受賞者が多く、1995年には慶応義塾大学の渡辺教授らが《ハトを訓練してピカソとモネの絵を区別できるようにした功績》、2005年にドクター中松氏が《35年間に渡り自分の食事を撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析した功績》などによってです。

   また2013年には順天堂大学の教授らが《心臓移植をしたマウスに、オペラの「椿姫」を聴かせた所、モーツァルトなどの音楽を聴かせたマウスよりも、拒絶反応が抑えられ生存期間が延びたという研究》、翌2014年には北里大学の教授がバナナの皮を、人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究》で受賞。

   そして、授賞式は、毎年、ハーバード大学で行われ、これに出席する旅費や滞在費などすべて受賞者の自己負担。受賞者がステージでスピーチをしていると、女の子がやってきて「もういいかげんに止めて!」など、非常に楽しいのも有名です。授賞式の映像がYouTubeにあるのでご覧になって下さい。

太平洋は「太」で大西洋は「大」

   地球には「三大洋」と呼ばれる大きな海が3つあり、大きさ順でいうと、「太平洋」「大西洋」「インド洋」です。「太平洋」は日本とアメリカの間、「大西洋」はヨーロッパの西、「インド洋」はインドの南にあります。そして、最も大きい「太平洋」の面積は地球上の全ての陸地を合わせた面積より大きいのです。

   さて、このうち「太平洋」には「太」、「大西洋」には「大」の字が使われている理由をご存知でしょうか。その理由をネットで調べてみました。まず、「太平洋」はポルトガルの航海者、マゼランに由来します。1519年9月、マゼランは「トリニダード」号という船に乗りスペイン南部の港を出ます。

   そして、南アメリカ沿岸を南下し、1520年11月に「太平洋」に出ます。この海に出るまでは過酷な航海だったのに、なぜか「太平洋」に出た途端に海は穏やかになったのです。そこで、マゼランはこの海にラテン語で「太平」「平穏」を意味する「Mare」という言葉をつけ、これを中国が「太平洋」と訳したのです。

   一方、「大西洋」については、古い中国の言葉で西側諸国のことは「泰西」といい、そこから、最初は「泰西洋」と名付けられましたが、泰という字には大きいという意味があったことから、泰の字がいつしか大になり「大西洋」になって日本に伝わったということです。どうやら、どちらも出所は中国のようです。

サッカーの勝敗が引金の戦争

   サッカーの国際試合の勝敗が原因で戦争になった「サッカー戦争」と呼ばれる戦争があったのをご存知でしょうか。その国際試合は、1969年6月27日、メキシコで行われたサッカーW杯予選のエルサルバドル対ホンジュラス戦、試合は延長戦の末に3対2でエルサルバドルが勝ちました。

   ところが、中米で隣接する両国の国境線は、雨季と乾季で地形が大きく変動することから未確定の部分が存在したり、そのほか、移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題があって以前からあまりいい関係ではなかったと言っていいでしょう。、つまり、両国はずっと火種を抱えていたのです。

   そんな関係にあった両国の試合の最中にサポーター同士の衝突が起こって、関係は更に険悪なものとなり、結局、試合直後の6月末には国交が断絶、そして、7月14日にエルサルバドル空軍がホンジュラスの空軍基地を攻撃し、本格的な戦争に突入。要するにサッカーの勝敗が引き金になったのです。

   そこで、米州機構が調停に乗り出すことになり、7月29日に停戦協定が成立したものの、両国の戦死者は何と2,000人にものぼりました。両国は1980年に和平に合意し、2006年には国境線画定文書に署名、遺恨の試合から37年を経て、ようやく紛争に終止符が打たれたのです。

色々な説がある源頼朝の末路

   たまには1000年前に思いをはせるのも無駄ではないでしょう。700年に及ぶ武家政治の基礎を作った源頼朝。しかし、その末路はまことにあっけないものでした。鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」によると、正治1年(1199年)12月、頼朝は相模川の橋供養に臨席したのです。

   そして、その帰路、頼朝は何と落馬して、翌年の1月13日にこの世を去ったとあるそうですが、14世紀半ばに書かれた「保暦間記」には、頼朝は平家一門や義経など源氏の同族たちの亡霊の祟りにより発病して亡くなったと書いてあるそうです。きっと、落馬はカッコ悪いので病死にしたのかも知れません。

   また、百人一首で有名な藤原定家の日記「名月記」によると、頼朝が亡くなってわずか7日後、まるで頼朝の死を見越していたような手際よさで、頼朝派の一掃を朝廷が行ったことが書いてあり、その主導者の土御門通親が頼朝をこの世から消した張本人という説があるそうです。

   そのほか、頼朝がある女性と密会しているのを知った警護の安達盛長に斬られたという説もあり、しかもこれは頼朝の浮気癖に怒った妻、北条政子の差し金とも言われているそうですから驚きです。いずれにしても源頼朝の最後は虚しいものでした。以上、小和田哲男監修「400字で読むあらすじ日本史」からの引用です。

映画「カサブランカ」の後日譚

   丸谷才一さんの随筆は、いつもどうしてそんなことをご存知なのですかと、驚く事ばかりです。今回、紹介するのは「君の瞳に乾杯」(この原語は「Cheers! Looking at you, kids」です)というタイトルの一文。この書き出しは《「カサブランカ」については何十回も何百回もお読みになったことでしょう。もうウンザリかも知れない。…》。

   いえいえ、そんなことはありません。もう頭の中に「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」のメロディが充満しています、丸谷さんが一杯飲んでいるときにクイズとして出されたのは「例のあの夜、イングリッド・バークマンとポール・ヘンリードが飛行機で飛び立った空港場面は、一体、何年何月何日か?」という問題です。

   映画の中にだってないこの答を、丸谷さんはちゃんと知ってるのです。実は「タイム」の記者だったマイケル・ウォルシュという人の書いた「カサブランカ」の後日譚《もうひとつの「カサブラカ」》という小説に書いてあると言うのです。恐らく、この小説の存在はほとんどの方が初耳かも知れません。

   飛行機が飛び立った後、ボガートと警察署長とピアニストのサムの三人は、サムの運転する「ビュイック」でケニトラに向かっています。その時、カー・ラジオから流れてきたのは「ただいま、日本がハワイの真珠湾を攻撃しました」、時は昭和16年(1941年)12月7日の午後10時。2002年に扶桑社が翻訳したものを発刊したとかのこの小説、映画ファンはきっと読んでみたくなったことでしょう。

クラシック音楽の合唱の魅力

  音楽のジャンルに「アカペラ」があります。これは伴奏楽器を使わずに人間の声のみで歌う音楽と理解されていますが、必ずしもそれだけではありません。「アカペラ」は正確にはイタリア語の「ア・カペッラ」、つまり、チャペル(礼拝堂)のことで、「アカペラ」の意味を正しく書くと《「礼拝堂風に」歌われる合唱音楽》。

   地域や時代によって教会音楽のスタイルは様々で、オルガンなどの伴奏つきでも、宗教曲として作られれば「アカペラ」と呼ばれます。16世紀にイタリアの音楽家パレストリーナが清らかな響きを持つ無伴奏の合唱様式を確立。そして、19世紀以降は楽器伴奏のない声楽曲はすべてを「アカペラ」というようになったのです。

   この「アカペラ」という言葉は、日本に浸透する時点ですでに宗教色が薄れ、「伴奏のない合唱曲」の意味に変化してしまったと言っていいでしょう。その代表的なグループと言えるのが「ゴスペラーズ」。ともかく、クリスチャンではないのにレクイエムが好きな私としては、どんな合唱曲でも堪りません。  

   確かに「アカペラ」は私の好きな音楽のジャンルの一つであるのは間違い有りませんが、それにも増して、壮大なオーケストラをバックにしての合唱、ベートーヴェンの「第九」やマーラーの交響曲第2番「復活」のような曲の存在も、私をクラシック音楽の虜にした原因と言ってもいいかも知れません。合唱曲、本当にいいです。

驚く「九官鳥」の真似る能力

   人間の声を真似することが出来る九官鳥、ペットで飼いたい人がいっぱいいるようです。ネットに長野県の「キットウココ」(0266-44-3952)というペット・ショップがシンガポールより輸入した九官鳥が15羽いて、通常価格250,000円のところ165,000円で販売してるとあります。

   私もどこかで九官鳥が人の声を真似てるのを聞いたことがありますが「オハヨウ、オハヨウ」など実に巧みでびっくりした経験があります。ある本によると、九官鳥が人間の言葉を真似出来る理由は舌の構造で、九官鳥の舌は、人間と同じように厚みがあり、自由に動くのだそうです。

   そのため、人間の声ばかりではなく、犬の鳴き声やインターフォンのベルまで真似ることが出来るそうですから凄いです。では九官鳥がなぜ人間の声を真似するかというと、その故郷のインド、中国、東南アジアの森では小さな群れを作って暮らしていて、お互いの識別には「ラウド・コール」と呼ぶ声を出します。

   そして、つがい同士が相手を呼ぶ時には、その鳴き声は決まっていますが、ほかの相手を呼ぶ時には、相手のコールを真似るという高度な能力を持っています。つまり、九官鳥が人間の言葉を真似するのは、言葉を理解しているからではなく、人間を仲間とみなし、識別しようとしているとは驚きです。では九官鳥の話です。

演奏に18時間も掛かる曲

   世の中には、全曲演奏するのに何と18時間も掛かるピアノ曲が存在するのをご存知でしょうか。フランスの著名な作曲家、エリック・サティの「ヴェクサシオン」。この曲は52拍からなる約1分20秒のメロディを840回ひたすら繰り返すことで構成されており、更に演奏には「ゆっくり」という指示があります。

   ウィキペディアによると、曲名の「ヴェクサシオン」はフランス語で「嫌がらせ」「癪の種」を意味し、作曲者のノートには「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう」と書かれているそうです。

   この曲はサティの弟子のロベール・キャビーが、フランスの「国立中央文書館」から見つけてきたもので、サティの3曲の遺作のうちの1曲です。そして、初演は1963年にジョン・ケージらにより、この時は10人のピアニストと2人の助っ人が夕方6時から演奏を開始し、翌日の午後0時40分まで演奏をし続けました。

   また、日本では、黛敏郎、一柳慧、石井真木、湯浅譲二ら16人によって昭和42年(1967年)12月31日の昼前から1968年1月1日の朝まで東京の「アメリカ文化センター」で演奏しています。何しろ18時間も掛かる曲のYouTubeなど絶対に無いと思っていたら、ほんのサワリ(1分59秒)がありました。

人間の頭脳を超えた人工頭脳

   何年も前、会社でコンピューターのSEやプログラムの仕事をしていた頃、まだ、AI(人工知能)の話題はあまりありませんでした。ところが、今やAIは知らないと恥ずかしい状態になり、ネットに易しい解説がいっぱいあります。その中から「非エンジニアもわかる!AI(人工知能)を分かりやすく紹介」というサイトを発見。

   まず、AIの定義。《AIとは「Artificial Intelligence(人工知能)」という大量のデータから「判断」するシステムのことを言います。AIの研究は「推論」「学習」するの二つの分野に分かれています。「推論」はデータをあらかじめ与えておいて、その情報から答えを導き出すものです。例えば「アルファ碁」です。

   アルファ碁は、GoogleのDeepMindによって発展した囲碁プログラムです。2016年3月に囲碁界のトップ李九段との5番勝負で、4勝1敗で勝ちました。チェスや将棋に比べ、盤面が広く、対局のパターンが多いことから、このアルファ碁の勝利は、AIの進歩をより鮮明にしました》。

   私もこのニュースに接した時、まさか、囲碁界のトップ・レベル  李九段と5回戦って4勝1敗になるとは思わずに仰天。従来、囲碁や将棋のコンピューターは試行錯誤で最もいい手を探して戦うものとばかり思っていたらAIはそうではないのです。つまり、AIは人間の頭脳を超えているのです。では「What’sAI」をどうぞ。

待ち遠しい「リニア新幹線」

   JR東海は「リニア中央新幹線」の開業を2027年に実行に移すことをすでに発表しています。何しろ、時速600キロを実現するためには「リニアモーター推進浮上式鉄道」の研究が必要で、それが開始されたのが昭和37年(1962年)ですから、すでに半世紀以上が経過しています。

   周知のように、「リニア新幹線」は「リニアモーター」を駆動源として、「磁気浮上方式」を採用したことに特徴があります。「リニアモーター」とは、その言葉通りに直線状(リニア)のモーターを言い、ネットに「リニアの仕組み」というサイトがありますので、よく読んで知識として知っておいてもいいでしょう(実験走行の映像)。

   また、「リニアモーター」の車両が浮上して走る原理も詳しく説明しているのでよく読むと、磁石の性質を利用してるのが解り、人間の頭脳の凄さにはたたただ驚くばかり。早く開通して東京と大阪が一時間で結ばれるのが待ち遠しいです。何はともあれ、大阪や京都旅行が電車で日帰り出来るなんて夢のようです。

   ところで、リニアモーターを駆動源とする車両は決して斬新なものではなく、都営地下鉄大江戸線の車両はリニアモーターで走っています。これにより、車体を小さく出来るため、トンネル断面積を小さくするのが可能で、建設コストを下げられる利点があります。すでにリニアモーターの車両は都内を走行しているのです。

「スキヤキ」に曲名変更の理由

   坂本九のヒット曲「上を向いて歩こう」が、アメリカの音楽専門誌ビルボードのチャートで、アメリカ以外の曲として、「スキヤキ」という名前で史上初めて3週連続1位を記録しました。この快挙は、日本人として誇るべきことですが、曲名がどうして日本の食べ物の「スキヤキ」になったかご存知でしょうか。

    作詞が永六輔、作曲が中村八大の「上を向いて歩こう」は昭和36年(1961年)、NHKの音楽バラエティー「夢であいましょう」で人気が出て、3ヶ月で35万枚を超えるという、当時としては、大ヒットを記録したのです。その翌年、イギリスのレコード会社の社長が商談のため来日しました。

   そして、お土産として持ち帰ったレコードの中にあったこの曲を社長はいたく気に入り、ジャズ風にアレンジしてイギリスで発売。しかし、「上を向いて歩こう」はDJたちには発音が難しそうでした。そこで、社長は曲名を変えることを思い付き、日本滞在中に浅草で食べた「スキヤキ」が頭に浮かんだのです。

   ジャズ盤「スキヤキ」は全英チャートで10位を記録、そして、アメリカで坂本九が歌うオリジナル盤を発売し、好評だったのです。もし社長が浅草で食べたのが「テンプラ」や「スシ」だったら、曲名もそうなるところでした。つまり、社長は、DJが曲名で苦労するのを気の毒に思いきっと曲名を「スキヤキ」に変えたのです。

九月に観るべき映画「旅愁」

   九月になると、観たくなる映画に「セプテンバー・ソング」で有名なアメリカ映画「旅愁」があります。ジョセフ・コットンとジョーン・フォンティンの恋愛映画で、コットンは妻子あるアメリカの技師、フォンテーンは美貌のピアニスト、二人はローマからフランスに向かう旅客機の中で知り合います。

    ところが、旅客機は機体の整備とかで出発時間が遅れ、それを利用して一緒にローマの街を観光をすることにします。あちこち観てるうちに飛行機の出発時間に間に合わずに、二人は空港にとり残されることになります。そして、飛び立った飛行機は何と事故で墜落し、二人はこの世にいないことになってしまうのです。

    実は、この技師の家庭は、奥さんとの関係がうまくいってなくて、二人はフィレンツェに居を構え、過去を捨ててこのまま生活していくことにとにします。しかし、この計画は長くは続かず、やがて全てが明るみに出ることになり、二人の決別の時が訪れます。つまり、世の中は思い通りにはならないのです。

     さて、二人がローマを観光してる時、とある古びたカフェのレコードで一緒に聴いた「セプテンバー・ソング」こそ、映画「旅愁」の白眉と言っていいでしょう。この曲、何とも言えない素晴らしいメロディで、二人が恋に落ちたのも「セプテンバー・ソング」が原因。未見の方は、是非、九月ご覧になって切なさを味合って下さい。

「歌舞伎」の始まりは何と女性

   「宝塚歌劇」は女性ばかりで、男性は絶対にいたことが無いと思っていたら、かって過去に25人も男性がいたことをネットで知り、前にブログにアップしました。ところで、今回は歌舞伎の話で、歌舞伎では女性はまったくいたことが無いど思っていたら、何と歌舞伎のスタートは女性だったのを知りびっくりです。

   そもそも、徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年、出雲大社の巫女と称する「出雲の阿国(いづものおくに)」という踊り子が京の都に出現したことに端を発しています。出雲から来た一座のアイドルの阿国の踊りは、京都の民衆の心を掴み熱狂させ、その人気の演目は「かぶき踊り」と言われました。

   阿国人気に便乗し、遊女らによる女一座が次々に誕生し、女性によって演じられたかぶき踊りは「女歌舞伎」と呼ばれるようになり、大ブームが起こります。ところが、阿国を真似てできた遊女一座の「女歌舞伎」の中には、ストリップまがいの際どい演目を行なうものも出てきました。

   また、この人気の影響で遊女を巡るトラブルや淫らな事件が多発し、徳川幕府は武家社会の風俗を乱すという理由で、1629年に「女歌舞伎」を禁止します。そして、女性から少年への変遷を経て、現在の成人男子の「歌舞伎」が誕生し、現在に至っているのです。つまり、「歌舞伎」の ルーツは女性だったのです。

秋に二つのヴェルレーヌの詩

   さしもの猛暑もいつしか別れの言葉も無く、急ぎ足でいずこにかに立ち去り、ヴェルレーヌの詩を口ずさみたくなる季節が訪れました。ヴェルレーヌの詩とくれば、やっぱり、堀口大学の訳でなければなりません。ほかの人の訳では私は駄目なのです。そこで取り出したのが、新潮社の堀口大学訳「ヴェルレーヌ詩集」

   さて、最初にどうしても取り上げたいのが「わびしい対話」。《うら枯れて 人気なき 廃園のうち かげ二つ現れて また消え去りぬ かげの人 まなこ死に 唇ゆがみ ささやくも とぎれとぎれや うら枯れて 人気なき 廃園のうち 妖(まが)つ影 ふたりして 昔をしのぶ………》。

   そうです。ジュリアン・デュヴィヴィエの映画「舞踏会の手帖」の中で、ルイ・ジューヴェとマリー・ベルが楽しかった若き日を脳裏に描き、二人口を合わせてとなえていた詩です。訳は字幕作者で堀口大学ではありませんが、何度繰り返しこのシーンを観たか解りません。で、もう一つ書き出したいのはこよなく美しい「秋の歌」。

   《秋風の ヴィオロンの 節ながき 啜り泣き もの憂き かなしみに わがこころ 傷つくる 時の鐘 鳴りも出づれば せつなくも 胸せまり 思いぞ 出づる 来し方に 涙は湧く 落葉ならぬ 身をばやる われも かなたこなた 吹きまくれ 逆(さか)風よ》。何か物憂い初秋のひと時、ヴェルレーヌの詩を二つ紹介しました。

明智光秀は永く生きていた説

   本屋の店頭で小和田哲男監修「400字で読むあらすじ日本史」という本を見つけ買ってきました。というのは、この本に「明智光秀は死んでいなかった!?」というコラムが眼に留まり、家でじっくり読みたかったからです。天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺で主君、織田信長を殺めました。

   この情報を知った豊臣秀吉は、かの有名な「中国大返し」によって戻り、明智光秀を山崎の戦いで破って、その逃走途中に落ち武者狩りで命を落としたというのが、歴史上の定説になっています。そして、光秀の首は本能寺の焼け跡にさらされていたということになっているのです。

   ところが、この首は偽物で、光秀本人はその後もずっと生きていたことが、江戸時代の随筆「翁草」に書いてあるというのです。では、光秀は宿敵秀吉の治世下をどうやって生きていたかというと、徳川家康のブレーンとして活躍した天海僧正その人こそ明智光秀だったという説があるのだとか。

   その証拠として、天海が造営に携わった日光の東照宮には、明智家の家紋である桔梗紋があることや、日光の明智平を命名したのが天海であることを見ても、天海と明智光秀が同一人物の可能性があるというのです。小和田氏はこの一文を《天下支配の夢破れた光秀が家康の下で天下経営に参加してたのはロマンがある話である》で結んでいます。歴史は実に面白いです。
 

国民が勝手に作った記念日

   毎月22日は何の日かご存知でしょうか。建国記念日や文化の日は、国が定めた祝日ですが、最近では民間で決めた記念日が続々と誕生し、平成3年(1991年)に設立された民間団体の「日本記念日協会」によると、日本には記念日が約2800もあり、協会が認定している記念日は1600以上あるのだそうです。

   例えば、2月3日は「ニユーサン」と読み「乳酸菌」の日。また、11月10日は「イイトウヒ」の語呂合わせから「いい頭皮の日」に制定されてるそうですが、何を記念して、どんなことを行うのかさっぱり解りません。では、冒頭の22日は仙台の洋菓子店が発案した「ショートケーキの日」。

   ちょっと、1か月表示のカレンダーをご覧になってみて下さい。22日の一週間前は15日で、必ず上に15日が乗っています。どうです、やっとお解りになったでしょう。22日の上には必ず「イチゴ」。更にこれより少し難解なのは7月10日の「植物油」の日、その理由は少しだけ頭を使います。

   つまり、「710」を横に並べて書き、180度回転させると「OIL」になるからです。それではネットに「語呂合わせの日」と題し、月と日の数字の組み合わせで、勝手に記念日を作ったサイトを発見しましたのでご覧になって下さい。人間って本当に「ダジャレ」が好きで好きで堪らないようです。

名画「モナ・リザ」盗難の経緯

   世界で最も有名な絵と言われるレオナルド・ダ・ヴィンチの縦77センチ、横55センチの小柄な「モナ・リザ」が、1911年8月22日のあと少しで正午になろうという時、休館日だったパリの「ルーブル美術館」から、忽然と姿を消したのをご存知の方はいっぱいおられるでしょう。つまり、盗まれたのです。

   警察は必死に捜査をしましたが、その過程で、ある大変な人物が容疑者の一人に挙げられました。その容疑者はキュビズム(立体主義)の創始者で有名な画家のパブロ・ピカソ。実は彼は1907年、「ルーブル美術館」から詩人アポリネールの秘書が盗んだ彫刻と関わりを持っていたのです。

   この事件をもう少し詳しく書くと、アポリネールの秘書が、「ルーブル美術館」から盗み出した彫刻をピカソに分け与えたのです。しかも、その秘書が顛末を雑誌に投稿し、驚いたピカソは、貰った彫刻をセーヌ川に捨てようとして捨てきれず「ルーブル美術館」へ返しに行った事件です。

   やがて、ピカソの嫌疑は晴れ、事件は1913年にイタリアのフィレンツェで解決を見ることになります。結局、「モナ・リザ」を盗んだ犯人は「ルーブル美術館」に出入りしていたイタリアの職人で、休館日で無人だった展示室の壁から絵を外し、服に隠して外に出たそうです。戻って本当によかったですね。

「我が輩は猫である」の逸話

   またしても丸谷才一氏の随筆の登場です。丸谷才一氏の随筆は内容が知的であるばかりではなく、教養とユーモアに溢れていて、もし、丸谷さんの随筆を読んで、感動しなかったら、人生の損失と言っても過言ではないかも知れません。で、今回は「ゴシップ!ゴシップ!」というタイトルの随筆です。

   この随筆は、夏目漱石の「我が輩は猫である」のことで、まず丸谷さんはこの小説の性格を並べています。愉快なのでちょっと書くと、猫の自伝、猫の自伝を装った教養小説、中学の英語教師の生活の観察記、作者夏目漱石の生活記録、交遊記、滑稽小説、議論小説、日露戦争当時の東京の記録、逸話集。

   ここで、今回、ブログに紹介するのは小説に出てくる浅田宗伯という漢方の名医の逸話。この老医が家に診察に行く時は必ず駕籠に乗って行ったそうです。そして、この浅田宗伯こそは浅田飴の発明者。また、徳川家最後の将軍徳川慶喜の御典医で、明治天皇の侍医。何だか凄い話ですね。

   では最後に丸谷さんの文章をそのままコピーします。《そこでわたしは思うのですが、「我輩は猫である」のなかに浅田宗伯の駕籠が出てくるだけで、浅田飴についての言及がなかったのは本当に残念だったなあ。もしも書いてあれば、永さん(永六輔さんがCMをやってました)は広告のなかに引用して何か面白いことを言ったのに》。それにしても、丸谷才一さんの博学には驚きます。

「全米オープンテニス」初優勝

   「全米オープンテニス2018」の女子シングルス決勝戦、今朝早朝に行われた試合のWOWOWの録画をたった今、見終わったところです。大坂なおみは出だしから好調で相手のセリーナ・ウイリアムズは、最初からダブルフォルトを犯すなど、あせりの色がみえみえで、大坂は第1セットを簡単に取りました。

   試合は第2セットに入っても大坂は冷静さを失わない試合運びで、逆にセリーナ・ウイリアムズは、思うようにいかない自分に腹を立て、ラケットをグランドにたたきつけて滅茶滅茶に壊し、レフリーから警告を受けて、次のゲームのスタートは「ラブ・フィフティーン」から始めさせられる始末です。

   それでも、ウイリアムズはレフリーに眼にいっぱい涙をためながら何だかワケが解らない文句をつけて、場内は異常な雰囲気が充満します。素人の眼で見ても、試合途中で有りながら、勝負あったという感じです。案の定、試合はそのまま大坂なおみがストレートで勝ち、日本女性初めての優勝を果たしました。

   それにしても、あの強いセリーナ・ウイリアムズを乱しに乱した大坂なおみに称賛の大拍手を送りたいです。何しろ、日本のテニス・プレイヤーの誰もなし得なかった快挙をまだ20歳の女性が現実のものにして、優勝賞金380万ドル(約4億2千800万円)を受け取りました。では、決勝戦のハイライトです。

変化する「エベレスト」の標高

   世界最高峰の「エベレスト」の標高のことを書きます。ネパールと中国の国境にそびえる「エベレスト」、中国名では「チョモランマ」と言います。そして、百科事典などに書いてある標高は8848メートル、これは1954年にインドの測量局が経緯機を使った三角測量で得た数値です。

   この数値は「公式標高」として長い間定着していましたが、1999年に混乱が引き起こされまされました。というのは、アメリカが人工衛星を使った全地球測位システム(GPS)で測ったところ、「エベレスト」の標高は2メートルも高い8850メートルであることが判明し世界に発表したのです。

   これを知って黙っていなかったのが、1975年にインドと同じ8848メートルの測定結果を出していた中国、2005年に中国は国の威信をかけて再調査し、何と今までの標高より4メートルも低い8844メートルと発表したのです。これは、山頂にある雪氷を差し引いた数値だというのです。

   測量のたびに数値が変わる「エベレスト」,、実はエベレスト付近はインドプレートがユーラシアプレートにぶつかって底に滑り込み、ヒマラヤ山脈を押し上げているので、毎年、「エベレスト」の山頂は4~7ミリずつ隆起していると言われています。従って、これからも測量のたびに変わる可能性があるのです。

「パフェ」と「サンディ」

   甘い物好きは名前を聞いただけでワクワクし、駄目な方は顔をしかめる「パフェ」と「サンディ」。まず「パフェ」は背が高い独特の形をした器に生クリームを入れ、アイスクリームを乗せて果物などを飾り付けたもので私の好物です。昔、銀座に「リズ」という有名な「パフェ」の専門店があってよく行きました。

   一方、「サンディ」は背の低い普通の器かお皿にアイスクリームを中心にしてシンプルな盛りつけをしたもので、もとは露店などで食べるアメリカの庶民的なデザートでした。どちらかというと「パフェ」の方が材料の種類が多く、作るのに手間が掛かるため、値段も高めに設定されています。

   ところで、「サンディ」のつづりは日曜日の「Sunday」ではなく「Sundae」。つまり、最後の「y」を「e」に変えていますが、最初に発売された時には「Sunday」だったのが、不謹慎(日曜日はキリスト教にとって特別な日)と非難されてこうなったという説があるようですが真偽のほどは定かでは有りません。

   ともかく、「サンディ」が生まれた由来には諸説あって、一時、アメリカでクリームソーダが大流行し、あまりの加熱ぶりにキリスト教の教会が日曜日(礼拝有り)にクリームソーダを飲むのを禁止したそうです。それに代わるものとして売り出されたのが「サンディ」という説があるそうです。

トランプ政権の内幕本が発売

   昨晩の「朝日新聞」夕刊で《米国国防長官「トランプ氏の理解力小学5、6年生」》という見出しの記事を見つけ驚きました。その記事によると、ニクソン元アメリカ大統領を辞任に追い込んだ「ウォーターゲート事件」を暴いた米紙ワシントン・ポストの記者が近くトランプ政権の内幕本を発刊するというのです。

   そして、アメリカのメディアがその抜粋を報じ、韓国に駐留するアメリカ軍を疑問視するトランプ大統領をマティス国防長官が「(理解力は)小学5、6年生並み)と愚痴る場面など、大統領に批判的なエピソードが盛り込まれているのだそうです。その「FEAR(恐怖)」という本は448頁に及び9月11日に発売です。

   その著書には、1月19日に行われた国家安全保障会議において、トランプ大統領の質問「なぜアメリカが朝鮮半島に人的資源や資金を投入してるのか?」に、マティス長官は「我々は第3次世界大戦を防ぐためにやっている」と答えたのだそうです。それに対し、駐留の負担を減らしたいトランプ氏の発言。

   「我々は愚かなことをしなければ、もっと金持ちになれる」と納得しなかったのです。大統領が退室した後、マティス長官は理解力が低いと嘆いたことが、この本に書いてあるようです。アメリカのトップ二人がこのようなやり取りをしてる本、これを読んだアメリカ国民はどんな反応をするのでしょうか。

「第九」演奏会に行けないワケ

   ブログに何度も書いていることですが、我が家では、一人娘が小学生の頃から、親子三人で暮の「第九」演奏会には必ずと言っていいほど行っています。別に記録をとってるわけでもなく、日記を書く習慣もないので、正確ではありませんが、恐らく30年以上続いている我が家の行事と言っていいでしょう。

   そして、このところずっと気にいっているのは、小林研一郎さんが指揮する日本フィルの「第九」です。何しろ小林さんと日フィルの「第九」は出だしから緊迫感が違うのです。ところが、一昨年あたりから、小林研一郎さんは東京芸術劇場もサントリーホールも、何故か「第九」のマチネー(昼間の演奏会)を行わないのです。

   確かに「第九」の演奏会は夜の7時に開演し、終演は午後9時が一般的です。しかしこの時間だと帰宅が10時~11時になり、若い時にはなんでもない時間でも、年をとるといささか厳しい時間です。そこで、ここ数年、小林研一郎さんが土曜日か日曜日に行う昼間のチケットを8月の暑い盛りに予約してました。

   そして、今年の小林研一郎さんと日本フィルの「第九」のスケジュールを見たら、何と12月16日の日曜日にサントリーホールで午後2時30分から「第九」があるではないですか。ところが、これが私の勘違いで指揮は井上道義さん。井上さんがいい指揮者であるのは知っていますが、コバケンの「第九」の虜になっている私たち夫婦(いつも涙!)は、今年もナマの「第九」を諦めました。

5円玉と50円玉の穴の理由

 6種類ある日本の硬貨のうち、穴が有るのは5円玉と50円玉。穴が空いてる硬貨は世界でも珍しいそうですが、何故穴が空いてるのか理由が書いてあるサイトをネットで見つけました。そのサイトによると、理由は3つで、①ほかの硬貨と区別するため②偽造防止③材料の節約、つまりコスト・ダウンです。

   5円玉が始めて世に出たのが昭和24年(1949年)、当時、日本は戦後の急激なインフレ状態にあったため、材料を節約してコストを下げたかったのです。5円玉で論じると、穴が有ると無いとでは、1枚当たり約5%(0.2グラム)、50円玉は約4%(0.15グラム)節約出来ます。

   5円玉が平成21年(2009年)に製造れた枚数400万3000枚で計算すると約800キロ、50円玉は500万3000枚製造しているので約750キロも節約したことになるのです。穴を空けるか空けないかで、こんな違いが出るのでは、政府としては全ての硬貨に穴を空けたい気分に違いありません。

   また、もう一つの理由に偽造防止があります。ともかく、硬貨の中心に丸い穴を空けるのは高度の技術が必要だそうですが、5円玉や50円玉を偽造する愚かな人間がどう考えても現れそうに思えず、やっぱり、製造コストを下げる以外に穴を空ける目的はなさそうです。

日本語と英語の数字記憶術

   「ルート2」の1.41421356を「一夜一夜に人見頃」と覚えた経験のある方はいっぱいおられるでしょう。また、鎌倉幕府の成立1192年を「いい国作ろう鎌倉幕府」と覚え、今だに頭から消えない方が沢山おられるに違いありません。ところが、鎌倉幕府が出来たのは1185年に訂正になり現在は「いい箱作ろう」です。

   何でこうなったかの理由は、かっては、源頼朝が征夷大将軍に任命された年をもって、鎌倉幕府の成立としていました。しかし、征夷大将軍は軍事のトップにすぎず、現在の防衛大臣みたいなもので、歴史上、征夷大将軍に任命されても幕府を開かなかった(開けなかった)人物は大勢います。

   そこで、全国に守護・地頭を設置して行政権を行使したことをもって、源頼朝が実質的な全国支配が完了したと考え、この年である1185年を幕府成立とする方が妥当とみて訂正したのです。では、語呂合わせという便利なワザが出来ない英語圏の人が行っている知的な円周率の覚え方を一つ紹介しましょう。

   円周率は「3.1415926」、これを暗記するために次の文章を作りました。「Can I have a small container of coffee?」(コーヒーを小さな容器でひとつ頂けますか?)、つまり、単語の字数が円周率になっているのは言うまでもありません。時間がある時にオリジナルな傑作を作ってみたらいかがでしょうか。

かって男性がいた宝塚歌劇団

   宝塚歌劇団が誕生したのは大正8年(1914年)ですから、もう直ぐ100年になろうとしています。この劇団は世界でも珍しい「女性だけのレビュー劇団」で、どなたもご存知の通り、男性はまったく加入出来ません。ところが、この劇団にかって「男子部」が存在したことをご存知でしょうか。

   それが出来たきっかけは、終戦直後の昭和20年(1945年)、4歳の子供時代から宝塚歌劇団を観てたという元海軍中尉の上金文雄さん(当時22歳)から宝塚歌劇の創始者、小林一三さんに一通の手紙が届きました。それには「男性が加入したミュージカルはおやりにならないのですか」という質問です。

   実は戦前から、男性の参加については内部でもその意見が浮上していて、手紙を読んだ小林氏はこれを受諾、新聞などで男性研究生が募集され、同年の12月に上金さんを含む1期生5人が入団し「宝塚歌劇団男子部」が誕生したのです。そして、その後も募集が続き、昭和27年(1952年)までに通算25名が加入。

   この男子たちは、大劇場の舞台を目指して、女子たちと共に声楽などのレッスンに励んだのですが、「宝塚には男はいらない」という内外の声が大きくなり、結局、一度も大劇場の本公演に出演することなく、昭和29年(1954年)3月をもって「男子部」は解散、誕生からわずか9年で姿を消しました。

ゴッホの幻想的な「星月夜」

   西洋美術家木村泰司氏の「名画の謎解き」(大和書房)によると、1853年3月30日、オランダで牧師の息子として生まれたゴッホは、子供の頃から、とても頑固で、激しやすい性格でした。年とともに、強情になり、ますます怒りっぽくなっていった彼の気性の激しさは社会にうまく適応出来ない元凶となります。

   その彼が、繰り返される発作により絶望の淵を漂いながらも制作を続け、その時期に描かれた傑作の一つがこの「星月夜」。引き伸ばされた独特の筆遣いが特徴的ですが、どうしてアルル時代よりも、筆遣いが激しくうねっているのか、木村泰司氏はその理由をこう書いてるので紹介します。

   ゴッホは、しばしば「狂気の画家」というレッテルを貼られていますが、決して発作の最中に制作をしていたわけではありません。しかし、数ヶ月ごとに。自分が発作に見まわれることが解ったゴッホは、次の発作が起こるまでに、猛烈な勢いで、出来る限り多くの作品を描こうとしたのです。

   その結果、かえって緊張感が作品に表れ、長くうねった躍動感のある筆遣いになり、強烈な色彩や大胆な激しい表現力に満ちた幻想的で神秘的な作品が生まれたと木村泰司氏は書いています。特徴のある筆遣いで描かれたニューヨーク近代美術館所蔵の「星月夜」。ゴッホが好きな黄色が少しだけ入っています。

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